「これ、すごいですね!AIで作ったんですか?」
最近、手がけた仕事に対してそう言われることが増えました。効率的に、ミスなく、そして誰が見ても整った成果物を出した時ほど、この言葉が飛んできます。
相手に悪気がないのは分かっています。むしろ、最先端の技術を使いこなしている「デキる人」として褒めてくれているのでしょう。でも、その言葉を聞くたびに、私の心には薄い膜が張ったような、得も言われぬ虚しさが広がります。
それはまるで、昨日までそこにあった自分の指紋を、強力な洗剤で綺麗に拭き取られてしまったような感覚です。
効率化の「代償」としての透明化
私たちが心血を注いで「仕事の摩擦」を取り除こうとすればするほど、そのプロセスは滑らかになり、人目に触れなくなります。
- 複雑なデータを一瞬で整理するスクリプト。
- スマホで見た時に、迷わず指が届くボタンの配置。
- 何度もテストを繰り返し、エラーが出ないように整えられた仕組み。
これらが完璧に機能している時、使う人はそこに「作り手の葛藤」があるなんて想像もしません。「ツールが便利だから」「AIが賢いから」という一言で、その裏側にある「なぜそうしたのか」という執念は、効率化という名の大波に飲み込まれて消えていくのです。
「自動」という言葉の裏にある、あまりに人間的な泥臭さ
世の中が言う「自動化」や「AI活用」という言葉は、あまりに耳触りが良すぎます。ボタン一つで何かが解決する魔法のように聞こえますが、現実はもっと泥臭いものです。
現場で誰かが感じている「ちょっとしたイラ立ち」を拾い上げ、それを解消するためにコードを書き直し、UIを1ピクセル単位で微調整する。AIなら3秒で出す回答を、私はあえて数時間かけて「人間が使いやすい形」に削り出していく。
その時間は、効率という指標で測れば「無駄」かもしれません。でも、その無駄な時間の中にしか、使う人への想像力や、仕事への責任感は宿らないはずです。
それなのに、出来上がったものが「あまりにスムーズ」であるがゆえに、それは「機械の仕事」へと分類されてしまう。この皮肉な矛盾が、今の私たちの仕事の現場に、静かに、でも確実に影を落としています。
効率化の「正解」と私の「執念」がぶつかる場所
正直に言えば、私もAIの恩恵を誰よりも受けている一人です。プログラムのバグを探したり、定型文を作らせたりする分には、これほど便利な道具はありません。効率化を突き詰めるなら、AIを使い倒すのが「正解」です。
でも、その「正解」だけで出来上がった仕事を見つめるとき、私はどうしても得も言われぬ違和感を拭えません。
検索エンジンには見えない「1ミリの違和感」
「業務効率化」や「DX」という言葉で検索すれば、いかに手間を省き、いかに自動化するかという答えが山ほど出てきます。でも、現場の仕事はそんなに綺麗に切り分けられるものではありません。
例えば、ボタン一つの配置。
AIなら「一般的で使いやすい統計的な位置」に置くでしょう。でも、私はあえてそこから1ミリずらしたり、スマホで持った時の親指の届きやすさを何度もテストして微調整したりします。
それは、効率や統計の問題ではなく、「自分が使う時に、ここで指が迷うのが嫌だ」という、極めて個人的でわがままな感覚です。この「わがまま」を解決するために数時間を溶かすことは、AIから見れば非効率なエラーでしかありません。しかし、そのエラーの積み重ねこそが、使う人のストレスを消す「手触りの良い仕組み」を作るのだと信じています。
「AIでいいじゃん」に、言葉が詰まる理由
「そんなにこだわらなくても、AIでパッと作ればいいじゃん」
そう言われると、言い返す言葉に詰まります。確かに、AIを使えば「そこそこ動くもの」は一瞬で手に入ります。それなのに、なぜ私はわざわざ自分で手を動かし、泥臭く調整を繰り返すのか。
それは、AIが作るものには「責任」と「体温」の置き場所がないからです。
AIは「なぜこの形にしたのか」という問いに対して、データに基づいた説明はできても、そこに「使う人への想い」を込めることはできません。私が作っているのは、単に数字を処理するだけのシステムではなく、誰かの日常の「面倒くさい」をそっと引き受ける、後ろのポケットに忍ばせておく道具です。
効率の先にある「空虚」
効率化が進み、すべての仕事が「ボタン一つ」に集約されていく。それは素晴らしいことのはずなのに、何かが削り取られていく気がしてなりません。
自分の考えた形、自分がこだわった色、自分が使いやすいと信じたリズム。それらが「AIでもできる」と一括りにされるとき、私は「自分の仕事の価値」を見失いそうになります。
でも、だからこそ意地でも残しておきたい。
効率だけを追い求めるなら捨ててしまうような、あのアホらしいほどのこだわりや、何度もやり直した末の「よし、これだ」という確信。それこそが、機械には真似できない、人間にしか残せない「仕事の跡」なのだと、自分に言い聞かせています。
100回の「微調整」は、たった1秒の「当たり前」に消えていく
先日、自作のツールを使っている方から「これ、すごく自然に動きますね。今の時代、AIに任せればこういうのも一瞬で作れちゃうから便利ですよね」と言われました。
その時、私は愛想笑いを浮かべながら、心のどこかで苦笑いしていました。
なぜなら、その「自然な動き」を実現するために、私は前夜、たった一行のコードの書き換えに3時間を費やしていたからです。
画面の裏側で繰り広げられる、孤独な「数ピクセル」との戦い
具体的に言えば、スマホで操作した時のボタンの反応速度と、指が触れた時のわずかな色の変化のタイミングです。
AIにコードを書かせれば、確かに「動くボタン」は一瞬で出来上がります。でも、実際にスマホを片手に操作してみると、どうにも指に馴染まない。ほんのコンマ数秒、反応が遅いだけで、人間の脳はそれを「ストレス」として検知します。
私は、自分の親指が一番心地よく感じるまで、何度も数値を書き換え、テストを繰り返しました。
- ボタンの角をどれくらい丸めれば、威圧感を与えず「押したくなる」か。
- スマホの端っこに配置した時、誤操作せずに片手で届くか。
- 複雑な計算が終わるまでの待ち時間に、どんな表示を出せば「止まっている」と不安にさせないか。
こうした作業は、はたから見れば「あってもなくてもいい、重箱の隅をつつくような無駄」に見えるでしょう。実際、出来上がったツールを使う人は、そんな私の葛藤など微塵も感じることなく、ただ「当たり前」にボタンを押し、1秒で作業を終えます。
「何事もない日常」を支える、誰にも見えない汗
これは、バックオフィスの事務作業も全く同じです。
誰かが使いにくいと言ったExcelのフォーマットを、こっそり数式を組み直して使いやすくしておく。バラバラに届く情報を、次に使う人が迷わないように深夜に一人で整理しておく。
そうやって「事務の摩擦」をあらかじめ消しておけばおくほど、周囲からは「最近はシステムが勝手にやってくれるから楽だね」と思われます。
トラブルが起きないのは、誰かが事前に芽を摘んでいるから。
スムーズに仕事が回るのは、誰かが「情報の住所」を整え続けているから。
でも、その「誰か」の存在は、効率化が進めば進むほど、AIという便利な言葉の影に隠れて見えなくなっていきます。
評価されない「気遣い」に価値はあるのか
「AIでいいじゃん」という言葉が突き刺さるのは、私たちがその「見えない部分」にこそ、プロとしての誇りや人間としての優しさを込めているからです。
効率だけを求めるなら、AIが吐き出した無機質な回答をそのまま渡せばいい。でも、それを受け取った相手がどう感じるか、その先の作業で誰かが困らないか。そこまで想像を巡らせるのが、人間にしかできない「仕事」のはずです。
誰にも気づかれない。評価もされない。
それでも、使う人の指が迷わなかったその1秒のために、私は今日も泥臭く、101回目の微調整を繰り返しています。
「便利さ」の毒に気づきながら、私がハンドルを離さない理由
正直なところ、すべてをAIに任せてしまえば、私の悩みは半分以下になるでしょう。プログラムが動かない時に頭を抱えることも、スマホでの操作感に納得がいかず徹夜することもなくなります。AIの指示通りに、AIが作ったものを横流しする。それが現代における「最短ルートの成功法則」なのかもしれません。
でも、私はその「最短ルート」に乗るのが、たまらなく怖いのです。
思考をアウトソーシングした先にある、空虚な自分
AIに「正解」を聞き続けることは、自分の思考の筋肉を少しずつ衰えさせていく作業に似ています。
「AIがこう言っているから、これが正しいんだろう」
そう思った瞬間に、現場で働く誰かの顔を思い浮かべる想像力や、自分の指先が感じる「使いにくさ」へのセンサーが死んでいく。効率という名の麻酔をかけられ、自分が何のために、誰のためにこの道具を作っているのかという、一番大切な「手応え」を失ってしまう気がするのです。
私が作りたいのは、AIが吐き出した「無難な100点」ではありません。
たとえAIから見れば「非効率な80点」だったとしても、使う人が「あ、これ私のこと分かってくれてるな」と感じる、体温の通った仕組みです。
「道具」に支配されるか、自分の「手になじませる」か
バックオフィスの現場でも、同じことが起きています。
導入されたシステムに人間が合わせ、決められた枠の中に情報を押し込んでいく。それは効率化に見えて、実は「人間がシステムの一部」になっている状態です。
私は「うしろぽっけ」のツールを通じて、その主従関係をひっくり返したい。
- AIが作った完璧なマニュアルより、自分の癖に合わせた一言のメモ。
- 複雑な機能が並ぶ管理画面より、今すぐやりたいことに指が届く、あのぷっくりしたボタン。
自分が使いやすいように、自分のリズムで、情報を飼い慣らす。
そのための「自分専用の道具」を持つことは、AI時代において自分の尊厳を守る、ささやかな、でも力強い抵抗だと思っています。
最後に残るのは「誰が」ではなく「どう考えたか」
「AIでできる」と言われても、私がハンドルを離さないのは、最後に責任を取るのが私自身だからです。
仕組みが動かなかった時、誰かが使いにくくて困った時。
その時、AIのせいにするのではなく「私がこう考えた結果、こうなりました」と胸を張って言いたい。その責任感こそが、仕事に実体験という名の重みを与え、巡り巡って使う人の信頼に繋がると信じています。
効率化は目的ではなく、あくまで「人間が機嫌よく働くため」の手段。
だからこそ、私はこれからも、AIという便利な猛獣を使いこなしながら、肝心なところでは泥臭く自分の感性をぶつけ続けていこうと思うのです。
効率化の先にある「余白」を、誰かのために残しておく
「AIでできる」と言われる時代は、見方を変えれば、人間が「本当にやるべきこと」を問われている時代でもあります。
私が「うしろぽっけ」のツールを作り、事務の摩擦を消そうと躍起になっているのは、決して人間を楽なだけの存在にしたいからではありません。ましてや、AIに勝とうと意地を張っているわけでもありません。
ただ、機械に任せられることは徹底的に機械に任せ、そこで生まれた「1分、1秒の余白」を、もっと人間らしい、不器用で、でも温かい何かに使ってほしいと願っているからです。
最後に残るのは、数字ではなく「記憶」
効率化を突き詰めた先に残るのは、完璧なデータや整った表だけではありません。
「あの人の資料は、なぜかいつも読みやすい」
「あのツールを使うと、なんだか少しだけ気分が軽くなる」
そんな、言葉にできないくらいの小さな「心地よさ」の記憶です。
その記憶を作っているのは、AIが吐き出した最適解ではなく、誰かが「ここ、もう少しこうしたら使いやすいかな」と悩み、手を動かした跡です。その「跡」こそが、仕事に体温を宿し、人と人を繋ぐ最後の砦になると信じています。
誇りを持って「無駄」にこだわろう
もし、あなたが今取り組んでいる「見えない気遣い」や「1ミリのこだわり」を、誰かに「AIでできるよね」と片付けられてしまったとしても、どうか悲しまないでください。
その「誰にも気づかれない1秒」を守るために、あなたが費やした時間は、間違いなく誰かの負担を減らし、誰かの心を救っています。それは、どれだけ技術が進歩しても、実体験と執念を持った人間にしか成し遂げられない、尊い仕事です。
うしろぽっけに、そっと忍ばせて
私はこれからも、AIという便利な道具を横に置きながら、最後は自分の指先で、自分の目と耳で、納得のいくまで仕組みを整え続けていきます。
派手な成功も、キラキラした未来予想図もいりません。
ただ、あなたが仕事の途中でふと立ち止まった時、後ろのポケットからさっと取り出して、また前を向けるような。そんな「体温の残る道具」を、一つひとつ丁寧に、この手で作っていこうと思います。
効率化という冷たい言葉の裏側に、今日も誰かの熱い執念が生きている。
そのことを、私は誰よりも信じています。